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【考察】
Creation College2009
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汎用適応技術研究
適応の技術と技法
【Wikipedia】
すっぱい葡萄
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目次
はじめに
ほんとうのプレイ時間
●ゲーム設計
・ザコ戦はいらない!?
・ダンジョンはご褒美であれ
・「レベル制」を考える
●ストーリー設計
・ハッピーエンドは「報酬」
・固定ストーリーは不自由?
・シナリオスキップ!
●システムと世界観
・世界観がリアルであるべき
・DQでいいのはDQだけ
・「ターン制」を考える
・バトルシステムを考える
・「マップ」
・二通りを用意せよ
・ゲームシステム
・チュートリアルは不要!?
●キャラクター設計
・キャラクターの基本
・若者が世界を救う!?
・メアリー・スーとは?
├ ・1 内面設定
└ ・2 説得力
○内容整理中・・・
・世界を救うストーリー?
・ストーリーの基本
・RPGは長すぎる
・説明セリフ
・物語とゲーム性
・戦闘の難易度
・バトルテンポ
・ゲームバランス
・難易度設計のジレンマ
・セーブシステムデザイン
・本当に改善すべきこと
・真の面白さは「レベルデザイン」
・ゲーム開始から
・音楽
・RPG要素
・自由度
ほんとうのプレイ時間
●ゲーム設計
・ザコ戦はいらない!?
・ダンジョンはご褒美であれ
・「レベル制」を考える
●ストーリー設計
・ハッピーエンドは「報酬」
・固定ストーリーは不自由?
・シナリオスキップ!
●システムと世界観
・世界観がリアルであるべき
・DQでいいのはDQだけ
・「ターン制」を考える
・バトルシステムを考える
・「マップ」
・二通りを用意せよ
・ゲームシステム
・チュートリアルは不要!?
●キャラクター設計
・キャラクターの基本
・若者が世界を救う!?
・メアリー・スーとは?
├ ・1 内面設定
└ ・2 説得力
○内容整理中・・・
・世界を救うストーリー?
・ストーリーの基本
・RPGは長すぎる
・説明セリフ
・物語とゲーム性
・戦闘の難易度
・バトルテンポ
・ゲームバランス
・難易度設計のジレンマ
・セーブシステムデザイン
・本当に改善すべきこと
・真の面白さは「レベルデザイン」
・ゲーム開始から
・音楽
・RPG要素
・自由度
(※現在この記事はコピー移動まとめの部分があり 2010,2011,2013年記述が混在してます)
メアリー・スーの「警鐘」、そのもう一つの問題点は、設定や物語などの説得力。
メアリーの持つ代表的な問題のひとつ
それは 作品内での 各人物の人権・尊重が平等でない(片方がないがしろにされる)という点について
このページでは考えていきます。
■どういう理由でその設定がなされたか ~キャラクター設定の目的~
「金持ち」などの外面設定はダメなのか? という事について、
どういう理由でその設定がなされたか というのが重要なポイントになります。
例えば、主人公がID180の天才だったとして。
・周囲は平均IQ100で、周囲が称賛、見下し・比較して「踏み台」になってるのがメアリー・スー。
・逆に、敵にIQ180,190クラスのがわんさかでてくる頭脳バトル・・・はメアリー・スーではない。
同じ設定なのに差がでます。
つまり、その設定がどう活用されているかが重要なのです。
その設定はもてはやされるためにありますか? YES!メアリー・スー!
メアリーを批判する場合、その もてはやし部分 を批判すべきであり、設定から判断は間違い。
加えて、メアリーがいけないのは、作者の投影だからではなく、作者の願望の境遇だから。
作者の投影な だけ のキャラクター はメアリーではない のです。
「作者と同じ名前じゃん! メアリーだ!」 ←まちがい
「作者の投影と公言! メアリーだ!」 ←実は まちがい
「超絶な能力を持っている! メアリーだ!」 ←まちがい
「必然性もなく 納得出来ない描写で 露骨に持ち上げまくってる! メアリーだ!」 ←正解
という事。
作者が自身を投影し、実体験を語るようなものはメアリーではないですよ?
ネット上で、特に間違えられやすいパターンです。
つまり、どんな設定でも扱い方で変わる という事。
この特性の面白いところは、コミックアンソロジーなどで現れます。
悪質なメアリー・スー作品を 別の作者が二次創作して描くと メアリー・スーじゃなくなる事がある
と、設定が全く同じなのに、差が出るのです。
その理由は、キャラの扱いに差が出るから。
( 作品内で かませ化が酷いキャラに愛を注ぎまくったマンガも書けますし、
逆に、超絶モテはやされキャラを、馬鹿にしてみたマンガ とかも書けますしね )
これはまた逆もしかり。(非メアリ作品がメアリ化)
例を3つほど。
バトルマンガにおいては、悪役を徹底的にクズに書き・・・それによって
─ 主人公の持ち上げがなされる のがメアリーです。(敵へのリスペクト皆無)
─ 主人公の正義感を煽る、のは単なる勧善懲悪です。
もの凄い能力を得た!・・・これによって
─ 人々を救いまくって 村人みんなハッピー! は要するにヒーローモノですね。
─ 人々を救いまくったお礼で俺モテモテ! っていうのはかなり怪しいメアリー成分です。
戦国時代に現代の武器を持って現れた・・・これによって
─ 俺様無敵すぎwwwww っのては世界観崩壊型のメアリーですね。
─ しかし敵にもSF武器を持った強敵が! ってのは単なるカオスですね。
その設定はもてはやされるためにありますか? YES!メアリー・スー!
そのために、設定の 物語上の必然性・説得力の描写が欠けてしまうのです。
逆に、物語の上での必然性があり、しっかりと描写された説得力のある設定 はメアリーではない
という事もしっかり把握しましょう。
■「言わせられたセリフ」と「そのキャラの発言」
セリフを作る上で素人と玄人の差が顕著に出る部分・・・かもしれません。
物語を展開させる上で、
この後はこうなるから そうするために そうしゃべらせる
となってしまう悪い例があります。
しかしこれは誰でもやってしまいがちで、「じゃあ次はここへ行こう!」というようなセリフなどの
プレイヤーへの配慮を考えてる点は評価できます。
しかし、悪しきメアリー・スーの特徴として”これ”がなされる事は、とても悪質。
「主人公視点から他キャラが動いている」。
主人公の悪行が手放しに支持されていたりするのが代表的で、
昨今の漫画やゲームで見かけることがあります。
この点では作者や読者のモラルの欠如が現れている一種の社会現象かもしれません。
これは視点が1つに固定される事で陥りやすい落とし穴なのです。
人間というのは、自分にも相手にも視点がある。(考え方や価値観という意味も含みます。)
当然のことですが、これが理解できているかどうかがキャラクターの描写力に関わってくると思います。
メアリー・スーというのは作者が憑依して行動します。
この症状があると、そのセリフを言う人物がどういう性格で、どういう過去があって、
どういう本や人の言葉を見聞きしたためにそういう言葉を知ったのか、など
どうしてそういう発言をしたか、が全く描写されない という状態に陥ってしまいます。
人から出る言葉というは、その人の歴史を表します。
「キャラの言い放つセリフは、どうしてその言葉を言うようになったのかまで描くべし。」
これも 内面を描くこと の鉄則です。
例えば露骨な例ですが、
学校もない剣と魔法の世界の冒険者が、突然「学校でいじめはなくならない!」と発言したら。
え?コイツ何いってんの?って思いませんか?
そもそも学校ってドコよ? あの学園?お前行ってないだろ。
あーあ、作者の代弁かよ と。
「作者が今までの生活で思った事を、ファンタジー世界のキャラクターに発言させる」
これが、メアリー・スーの持つ問題点のひとつ。
もし、作品の登場人物にこのセリフを吐かせたい場合、
作品内でその人物がいじめに絶望する過去があった という物語は必要不可欠です。
セリフのためには過去が要る というのを頭に入れておくといいかもしれません。
これは露骨な例でしたが、
例えば「人間とは~」などの哲学的なセリフが特にこの作者代弁化が発症しやすいパターンです。
ここが、メアリー・スーの「警鐘」の一つ 説得力 の差となって現れるのです。
■正誤を描くこと・「勧善懲悪」
物語を書く上で当然のことなのですが、
キャラクターが悪い事をしたら、それが悪いことだと作中で描かれる事が必要です。
( 逮捕など罰を受けるかどうかではなく、作品自体がそういう描写になっているかどうか )
当然すぎて意識していない人もいるでしょう。
しかし昨今これが守られない事態が起きているため、改めて考え直す必要が出てきています。
しかしこれは多かれ少なかれ発生してしまう事柄。
謝る/後悔するような描写を入れる予定だったのに忘れたとか、
作者はそう描いたつもりだったのにできてなかったりとか、
重い話題を扱うほど、より丁寧に描かなければならないという技術力が必要になります。
著者の技術不足 という点もありますが、
その一方、はらいせで作られた物語はこうなるという法則があります。
まず、勧善懲悪とは、
簡単にいうと「良い事をしよう」「悪いことはやめさせよう」という事。
RPGのストーリーにおいてとても根深く、そして絶対的な思想となるものです。
「正義」という言葉に反感を持つ、いわゆる「厨ニ病」の症状で、勧善懲悪は幼稚である と考える。
ツクールかいわいですらこの風潮はありますね、いわば「アンチ勧善懲悪」な作品ができあがります。
誤解された正義に対するアンチが生まれ、じゃあ悪になろうという。
しかし主人公はモテる・ちやほやされる、という欲望部分はそのまま残った。
このちやほやされたい願望というのは、メアリーの特徴でしたね。
それが、悪行→好かれる という表現になってしまったのです。
これが、アンチ勧善懲悪をして物語が破綻するパターン。
では、主人公は正義の味方でなくてはならないか?
それはNOです。
悪が勝つ物語? それだって良いです。
悪の権化である主人公が破壊を繰り返し、
世界中から敵対視されつつ、登場した正義の英雄を苦戦の末撃破、
世界征服を達成し、周囲から恐怖され非難され嫌われる邪悪の支配者に!
法律から逃れる裁かれない悪役も同様で、
人々から忌み嫌われ悪の存在であることが明らかなもの、
あるいは悪行が周囲に知られていない「表面善人」などなど・・・
裁かれるかどうかはひとつの道具であり、
周囲の人間から嫌われたり、誰も知らなくても読者には悪だとわかる描写など、
作品を通して「悪」だと描かれているという事がもっとも大事 なのです。
例えば、漫画DEATH NOTEが上記のようなタイプで、RPGでいう「昨今の魔王」側ストーリー。
作中でも表現されているのが一部の救いですが、
現実問題あんな事しても犯罪は減りませんし、ご都合主義で変態なので好きではないです…
ドラえもんの「どくさいスイッチ」の前半だけ抜粋したようなものですしね。ネットでもネタにされたみたいで。
メアリー作品の特徴であるように、他人の人権を考えない、
自分のなかだけで完結するという共通点があります。
しかしそれを読者の一部がそれを読み取れていない事を見ると
モラルの低下が現れているなと強く感じる・・・というか、
「主人公は正義である」という物語での常識が根強すぎて、
その概念を打ち破れないでいる人が多そうです。
他人の人権 を考えれば すぐにわかるもの。
しかし逆に 考えなければ わからない、
ここでもやはり視点(考え方)が1つしかないのが問題です。
言葉を借りれば「自分の自我しか関心が無い」という特徴が
この現象に現れているんだと思います。
自分のなかだけで完結しているのです。
●「支持される悪行」への願望
この根底にあるのは作者がうっぷん晴らしとモテる快感を両立させたいという願望にあります。
だから、正義でない主人公を描いた際に、
正義のように人から愛される主人公を同時に描いてしまい、
アンチ勧善懲悪をして破綻するパターンになってしまうのです。
抽象化してみると
男「むかつくんだから口答えすんな!お前は俺に尽くしてればいいんだよ!」
女「きゃー男さん素敵!愛してる!!」
・・・。
・・・。
・・・、これが実際に市販作品で起きている のがヤバイです。
某所から言葉を拝借すると
「 殺すことが格好良いように表現されていて問題だ 」
という点は特に現代オタクの症状とも言える点で、悪しきメアリー・スーの特徴です。
この場合は極端な例なので、わかりやすいと思いますが、
もしこれが わかりにくいこと だったらどうでしょうか。
復讐に取り付かれ「はらいせ」で制作する場合、作者は 盲目 になっているのですから。
・いじめられた → いじめっこの殺害
・今時の大人 → 反抗する俺カッコイイ
・悪い政治家 → 殺害する俺カッコイイ
・モテない → ナンパ男を撃退 → 俺モテる
つまり
ムカつくもの → それに反逆する
という、皮肉ですが、こういう感じです。
これが「はらいせ」から発生する「悪しきメアリー・スー」のパターンです。
ここでの鉄則はただひとつ! はらいせで物語を作るな!
これに尽きると思います。
■不快感を与えるストーリー
ここ数年のテイルズシリーズ(テイルズオブジアビスが筆頭)をはじめ、
作者がプレイヤーを陥れる目的を感じるものがじわじわと出てきているようです。
技術不足 ではなくて、そもそも不快 という問題です。
Creation College 2009の「RPG研究/RPG問題考察」6番にこのことが書かれています。
こちら
作者がプレイヤーを不快にさせようと設計したという悪意に満ちた所業、
こういったものは見るに耐えないものがあります。
■「趣味はひとそれぞれ」?
メアリー・スーファンが「趣味は人それぞれだから」と思い、
メアリー批判を、個人の人権に侵害する行為かの如く批難することがあります。
しかし、そこにはひとつの問題点が。
以下の例文を見てみてください。
*「お前を殺させろよ。俺は人殺しが趣味なんだ。
人の趣味なんてそれぞれなんだから批判なんかするなよ。」
この おかしさ がわかるでしょう。これも「正誤を描くこと」にほかなりません。
そもそも、
「趣味は人それぞれ」という考え方は、人々がそれぞれ平等であるという考えが根底にあります。
人々が平等というのは、お互いがお互いを尊重することです。
つまり、他人の人権・存在を侵害しているような場合、平等をうたうのは無理があるわけです。
他人を侵害する行為に「人それぞれ」なんて言葉は通用しない
という事がよくわかります。
つまり上の文章は
*「お前は俺より無価値だ。人々は平等の価値をもっているんだ。」
という矛盾発言なのです。
転じて、
「他人の人権を無視しまくる作品」のファンが「趣味は人それぞれ」というのも無理があるわけです。
これは「誰も自分を理解してくれない・・・」という悩みにかんしても同じ事が言えます。
上記と同様に、お互いを理解するのは尊重しあう証拠。
*「人を殺したい俺の気持ち、誰も理解してくれないこの世の中は狂ってる。」
狂ってるのは*の人ですね。
他人を侵害しようとする事は、もはや平等や理解をうたえるものではない、
これがわかっていない人が、最近のゲームや漫画などので描写されはじめているのは、
すこし恐怖感を覚えます。
実際に自分の周囲にも、こういう考えで「私を理解してくれない。」と嘆く人を見たことがあります。
誰にも迷惑かけてないから自分の趣味は世界に理解されるべき
という発言は、
ゲーム内の人物にすら迷惑をかけてはいけないという大前提がある
その前提なくして 「理解されるべき趣味だ」なんて言うのは 筋が通らないのです。
他人を尊重する大前提があり、はじめて「人それぞれ」と言えるのです。
●まとめ
悪しきキャラクター/作品となるメアリー・スーという特徴、
そしてそれと同じ本質を持つ「キャラを動かす/言わせる」という脚本、
このすべての共通点は
おもいやりが無い
という凄くかんたんな言葉にできる事柄です。
おもいやりを改めて考え直す必要が出てきてるのかもしれません。
もう少し難しく言ってみると、
作者自身が他人を尊敬する心に乏しいために、
作品内の会話・行動において相手となるキャラクターが持つ
心情や状態、あるいはその人権や立場への配慮が欠けた描写をしてしまう
という事になりますね。
「 自分の自我にしか関心が無い 」状態ではダメなわけです。
良い物語を作るには、他人を好きな心が必要である
製作者にこのココロひとつあるだけで、メアリー・スーは発生せず、
正誤の描写も誤ることもなく、「人それぞれ」問題の他人侵害も起きない・・・
他人とのかかわり、絆の弱くなった現代社会、
そしてその人たちが開発側・創作者に回ったことが、メアリー・スーや、
正誤の描写誤りなどいったものに現れてきてのだと思います。
他人を尊重する心、感謝する気持ち、忘れてはなりません。
メアリー・スーの「警鐘」、そのもう一つの問題点は、設定や物語などの説得力。
メアリーの持つ代表的な問題のひとつ
それは 作品内での 各人物の人権・尊重が平等でない(片方がないがしろにされる)という点について
このページでは考えていきます。
■どういう理由でその設定がなされたか ~キャラクター設定の目的~
「金持ち」などの外面設定はダメなのか? という事について、
どういう理由でその設定がなされたか というのが重要なポイントになります。
例えば、主人公がID180の天才だったとして。
・周囲は平均IQ100で、周囲が称賛、見下し・比較して「踏み台」になってるのがメアリー・スー。
・逆に、敵にIQ180,190クラスのがわんさかでてくる頭脳バトル・・・はメアリー・スーではない。
同じ設定なのに差がでます。
つまり、その設定がどう活用されているかが重要なのです。
その設定はもてはやされるためにありますか? YES!メアリー・スー!
メアリーを批判する場合、その もてはやし部分 を批判すべきであり、設定から判断は間違い。
加えて、メアリーがいけないのは、作者の投影だからではなく、作者の願望の境遇だから。
作者の投影な だけ のキャラクター はメアリーではない のです。
「作者と同じ名前じゃん! メアリーだ!」 ←まちがい
「作者の投影と公言! メアリーだ!」 ←実は まちがい
「超絶な能力を持っている! メアリーだ!」 ←まちがい
「必然性もなく 納得出来ない描写で 露骨に持ち上げまくってる! メアリーだ!」 ←正解
という事。
作者が自身を投影し、実体験を語るようなものはメアリーではないですよ?
ネット上で、特に間違えられやすいパターンです。
つまり、どんな設定でも扱い方で変わる という事。
この特性の面白いところは、コミックアンソロジーなどで現れます。
悪質なメアリー・スー作品を 別の作者が二次創作して描くと メアリー・スーじゃなくなる事がある
と、設定が全く同じなのに、差が出るのです。
その理由は、キャラの扱いに差が出るから。
( 作品内で かませ化が酷いキャラに愛を注ぎまくったマンガも書けますし、
逆に、超絶モテはやされキャラを、馬鹿にしてみたマンガ とかも書けますしね )
これはまた逆もしかり。(非メアリ作品がメアリ化)
例を3つほど。
バトルマンガにおいては、悪役を徹底的にクズに書き・・・それによって
─ 主人公の持ち上げがなされる のがメアリーです。(敵へのリスペクト皆無)
─ 主人公の正義感を煽る、のは単なる勧善懲悪です。
もの凄い能力を得た!・・・これによって
─ 人々を救いまくって 村人みんなハッピー! は要するにヒーローモノですね。
─ 人々を救いまくったお礼で俺モテモテ! っていうのはかなり怪しいメアリー成分です。
戦国時代に現代の武器を持って現れた・・・これによって
─ 俺様無敵すぎwwwww っのては世界観崩壊型のメアリーですね。
─ しかし敵にもSF武器を持った強敵が! ってのは単なるカオスですね。
その設定はもてはやされるためにありますか? YES!メアリー・スー!
そのために、設定の 物語上の必然性・説得力の描写が欠けてしまうのです。
逆に、物語の上での必然性があり、しっかりと描写された説得力のある設定 はメアリーではない
という事もしっかり把握しましょう。
■「言わせられたセリフ」と「そのキャラの発言」
セリフを作る上で素人と玄人の差が顕著に出る部分・・・かもしれません。
物語を展開させる上で、
この後はこうなるから そうするために そうしゃべらせる
となってしまう悪い例があります。
しかしこれは誰でもやってしまいがちで、「じゃあ次はここへ行こう!」というようなセリフなどの
プレイヤーへの配慮を考えてる点は評価できます。
しかし、悪しきメアリー・スーの特徴として”これ”がなされる事は、とても悪質。
「主人公視点から他キャラが動いている」。
主人公の悪行が手放しに支持されていたりするのが代表的で、
昨今の漫画やゲームで見かけることがあります。
この点では作者や読者のモラルの欠如が現れている一種の社会現象かもしれません。
これは視点が1つに固定される事で陥りやすい落とし穴なのです。
人間というのは、自分にも相手にも視点がある。(考え方や価値観という意味も含みます。)
当然のことですが、これが理解できているかどうかがキャラクターの描写力に関わってくると思います。
メアリー・スーというのは作者が憑依して行動します。
この症状があると、そのセリフを言う人物がどういう性格で、どういう過去があって、
どういう本や人の言葉を見聞きしたためにそういう言葉を知ったのか、など
どうしてそういう発言をしたか、が全く描写されない という状態に陥ってしまいます。
人から出る言葉というは、その人の歴史を表します。
「キャラの言い放つセリフは、どうしてその言葉を言うようになったのかまで描くべし。」
これも 内面を描くこと の鉄則です。
例えば露骨な例ですが、
学校もない剣と魔法の世界の冒険者が、突然「学校でいじめはなくならない!」と発言したら。
え?コイツ何いってんの?って思いませんか?
そもそも学校ってドコよ? あの学園?お前行ってないだろ。
あーあ、作者の代弁かよ と。
「作者が今までの生活で思った事を、ファンタジー世界のキャラクターに発言させる」
これが、メアリー・スーの持つ問題点のひとつ。
もし、作品の登場人物にこのセリフを吐かせたい場合、
作品内でその人物がいじめに絶望する過去があった という物語は必要不可欠です。
セリフのためには過去が要る というのを頭に入れておくといいかもしれません。
これは露骨な例でしたが、
例えば「人間とは~」などの哲学的なセリフが特にこの作者代弁化が発症しやすいパターンです。
ここが、メアリー・スーの「警鐘」の一つ 説得力 の差となって現れるのです。
■正誤を描くこと・「勧善懲悪」
物語を書く上で当然のことなのですが、
キャラクターが悪い事をしたら、それが悪いことだと作中で描かれる事が必要です。
( 逮捕など罰を受けるかどうかではなく、作品自体がそういう描写になっているかどうか )
当然すぎて意識していない人もいるでしょう。
しかし昨今これが守られない事態が起きているため、改めて考え直す必要が出てきています。
しかしこれは多かれ少なかれ発生してしまう事柄。
謝る/後悔するような描写を入れる予定だったのに忘れたとか、
作者はそう描いたつもりだったのにできてなかったりとか、
重い話題を扱うほど、より丁寧に描かなければならないという技術力が必要になります。
著者の技術不足 という点もありますが、
その一方、はらいせで作られた物語はこうなるという法則があります。
まず、勧善懲悪とは、
簡単にいうと「良い事をしよう」「悪いことはやめさせよう」という事。
RPGのストーリーにおいてとても根深く、そして絶対的な思想となるものです。
「正義」という言葉に反感を持つ、いわゆる「厨ニ病」の症状で、勧善懲悪は幼稚である と考える。
ツクールかいわいですらこの風潮はありますね、いわば「アンチ勧善懲悪」な作品ができあがります。
誤解された正義に対するアンチが生まれ、じゃあ悪になろうという。
しかし主人公はモテる・ちやほやされる、という欲望部分はそのまま残った。
このちやほやされたい願望というのは、メアリーの特徴でしたね。
それが、悪行→好かれる という表現になってしまったのです。
これが、アンチ勧善懲悪をして物語が破綻するパターン。
では、主人公は正義の味方でなくてはならないか?
それはNOです。
悪が勝つ物語? それだって良いです。
悪の権化である主人公が破壊を繰り返し、
世界中から敵対視されつつ、登場した正義の英雄を苦戦の末撃破、
世界征服を達成し、周囲から恐怖され非難され嫌われる邪悪の支配者に!
法律から逃れる裁かれない悪役も同様で、
人々から忌み嫌われ悪の存在であることが明らかなもの、
あるいは悪行が周囲に知られていない「表面善人」などなど・・・
裁かれるかどうかはひとつの道具であり、
周囲の人間から嫌われたり、誰も知らなくても読者には悪だとわかる描写など、
作品を通して「悪」だと描かれているという事がもっとも大事 なのです。
例えば、漫画DEATH NOTEが上記のようなタイプで、RPGでいう「昨今の魔王」側ストーリー。
作中でも表現されているのが一部の救いですが、
現実問題あんな事しても犯罪は減りませんし、ご都合主義で変態なので好きではないです…
ドラえもんの「どくさいスイッチ」の前半だけ抜粋したようなものですしね。ネットでもネタにされたみたいで。
メアリー作品の特徴であるように、他人の人権を考えない、
自分のなかだけで完結するという共通点があります。
しかしそれを読者の一部がそれを読み取れていない事を見ると
モラルの低下が現れているなと強く感じる・・・というか、
「主人公は正義である」という物語での常識が根強すぎて、
その概念を打ち破れないでいる人が多そうです。
他人の人権 を考えれば すぐにわかるもの。
しかし逆に 考えなければ わからない、
ここでもやはり視点(考え方)が1つしかないのが問題です。
言葉を借りれば「自分の自我しか関心が無い」という特徴が
この現象に現れているんだと思います。
自分のなかだけで完結しているのです。
●「支持される悪行」への願望
この根底にあるのは作者がうっぷん晴らしとモテる快感を両立させたいという願望にあります。
だから、正義でない主人公を描いた際に、
正義のように人から愛される主人公を同時に描いてしまい、
アンチ勧善懲悪をして破綻するパターンになってしまうのです。
抽象化してみると
男「むかつくんだから口答えすんな!お前は俺に尽くしてればいいんだよ!」
女「きゃー男さん素敵!愛してる!!」
・・・。
・・・。
・・・、これが実際に市販作品で起きている のがヤバイです。
某所から言葉を拝借すると
「 殺すことが格好良いように表現されていて問題だ 」
という点は特に現代オタクの症状とも言える点で、悪しきメアリー・スーの特徴です。
この場合は極端な例なので、わかりやすいと思いますが、
もしこれが わかりにくいこと だったらどうでしょうか。
復讐に取り付かれ「はらいせ」で制作する場合、作者は 盲目 になっているのですから。
・いじめられた → いじめっこの殺害
・今時の大人 → 反抗する俺カッコイイ
・悪い政治家 → 殺害する俺カッコイイ
・モテない → ナンパ男を撃退 → 俺モテる
つまり
ムカつくもの → それに反逆する
という、皮肉ですが、こういう感じです。
これが「はらいせ」から発生する「悪しきメアリー・スー」のパターンです。
ここでの鉄則はただひとつ! はらいせで物語を作るな!
これに尽きると思います。
■不快感を与えるストーリー
ここ数年のテイルズシリーズ(テイルズオブジアビスが筆頭)をはじめ、
作者がプレイヤーを陥れる目的を感じるものがじわじわと出てきているようです。
技術不足 ではなくて、そもそも不快 という問題です。
Creation College 2009の「RPG研究/RPG問題考察」6番にこのことが書かれています。
こちら
作者がプレイヤーを不快にさせようと設計したという悪意に満ちた所業、
こういったものは見るに耐えないものがあります。
■「趣味はひとそれぞれ」?
メアリー・スーファンが「趣味は人それぞれだから」と思い、
メアリー批判を、個人の人権に侵害する行為かの如く批難することがあります。
しかし、そこにはひとつの問題点が。
以下の例文を見てみてください。
*「お前を殺させろよ。俺は人殺しが趣味なんだ。
人の趣味なんてそれぞれなんだから批判なんかするなよ。」
この おかしさ がわかるでしょう。これも「正誤を描くこと」にほかなりません。
そもそも、
「趣味は人それぞれ」という考え方は、人々がそれぞれ平等であるという考えが根底にあります。
人々が平等というのは、お互いがお互いを尊重することです。
つまり、他人の人権・存在を侵害しているような場合、平等をうたうのは無理があるわけです。
他人を侵害する行為に「人それぞれ」なんて言葉は通用しない
という事がよくわかります。
つまり上の文章は
*「お前は俺より無価値だ。人々は平等の価値をもっているんだ。」
という矛盾発言なのです。
転じて、
「他人の人権を無視しまくる作品」のファンが「趣味は人それぞれ」というのも無理があるわけです。
これは「誰も自分を理解してくれない・・・」という悩みにかんしても同じ事が言えます。
上記と同様に、お互いを理解するのは尊重しあう証拠。
*「人を殺したい俺の気持ち、誰も理解してくれないこの世の中は狂ってる。」
狂ってるのは*の人ですね。
他人を侵害しようとする事は、もはや平等や理解をうたえるものではない、
これがわかっていない人が、最近のゲームや漫画などので描写されはじめているのは、
すこし恐怖感を覚えます。
実際に自分の周囲にも、こういう考えで「私を理解してくれない。」と嘆く人を見たことがあります。
誰にも迷惑かけてないから自分の趣味は世界に理解されるべき
という発言は、
ゲーム内の人物にすら迷惑をかけてはいけないという大前提がある
その前提なくして 「理解されるべき趣味だ」なんて言うのは 筋が通らないのです。
他人を尊重する大前提があり、はじめて「人それぞれ」と言えるのです。
●まとめ
悪しきキャラクター/作品となるメアリー・スーという特徴、
そしてそれと同じ本質を持つ「キャラを動かす/言わせる」という脚本、
このすべての共通点は
おもいやりが無い
という凄くかんたんな言葉にできる事柄です。
おもいやりを改めて考え直す必要が出てきてるのかもしれません。
もう少し難しく言ってみると、
作者自身が他人を尊敬する心に乏しいために、
作品内の会話・行動において相手となるキャラクターが持つ
心情や状態、あるいはその人権や立場への配慮が欠けた描写をしてしまう
という事になりますね。
「 自分の自我にしか関心が無い 」状態ではダメなわけです。
良い物語を作るには、他人を好きな心が必要である
製作者にこのココロひとつあるだけで、メアリー・スーは発生せず、
正誤の描写も誤ることもなく、「人それぞれ」問題の他人侵害も起きない・・・
他人とのかかわり、絆の弱くなった現代社会、
そしてその人たちが開発側・創作者に回ったことが、メアリー・スーや、
正誤の描写誤りなどいったものに現れてきてのだと思います。
他人を尊重する心、感謝する気持ち、忘れてはなりません。
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