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■時限は嫌われる

 RPGでの「時限」とは、
ある程度ストーリーを進めると、発生しなくなるイベントや取得不可になるアイテムなど。


 RPGをプレイする目的のひとつとして 物語・イベントを見る 事がありますが、
時限イベントというのはコレに真っ向から対抗する性質を持っています。
プレイヤーに イベントを見せないようにする設計 なのですから。

 時限アイテムを考えると、「ゲームをコンプリートするためにはやりなおしが必要」という性質が出てきます。
アクションゲームと異なりRPGではニューゲームからのやりなおしの重さは凄まじいもの。
周回しなければゲームを堪能できない、という嫌われる設計の代表でもあります。

 時限アイテムでは、崩壊したダンジョンの宝箱の中身が、別の砂浜にたどり着いていたり、と
フォローすることもできます。


 とりのがした!  というのはプレイヤーのモチベーションを大きく下げます。

 「時限イベントは周回プレイで回収すればいいじゃん」というゲームデザインは
あまり褒められたものではないと思います。



■離脱する仲間へのフォロー

 ストーリーが進行し、パーティメンバーから離脱する事になる仲間・・・。
 その時「装備品が持っていかれる」というのが昔からあり、
「離脱する仲間の装備をひっぺがす」というプレイも続出。
そして「復帰した時に丸腰」というのもおなじみ。

 最近ではフォローされるゲームを増えてきましたが、
やはりこのフォローは必要だと思います。


 有名所では ドラゴンクエスト7での離脱。

 「種返せ!」が有名な叫びですが、実は種のステータスはアイラに引き継がれるので
無駄にはなっていないものの、それがプレイヤーに気づかれないから問題。
パラメータ引き継ぎのアイラの加入が、もっと早ければ違ったはずです。

 というのも、

     とあるメンバーが物語上で離脱、その直後にパラメータ完全引き継ぎの新メンバー加入

 これを考えると、ゲーム性・パーティの戦力はまったく変化ない
義理人情を考えると離脱はさみしいものですが、
ゲーム性だけを考えれば、なにもなかったと同じこと。
 それで、新メンバーとちょっとだけ差異があれば、
元々の戦力だったメンバーが、イベントによってクラスチェンジした、としても見て取れるわけです。

 同じ戦士なら戦士、魔法使いなら魔法使いで、離脱&加入の交代を行わせれば、
パーティメンバーに激動の物語をさせつつゲーム性を維持する ことができるわけです。


 市販RPGでも、たまに見かけるこの方式ですが、
もっといろいろなゲームでうまい事使えるような仕組みだと思います。




 別の事例では、ファイナルファンタジー4のセシル。
 セシルの交代は、同じ人物の 別能力 であり、
DQ7アイラ引き継ぎとは 真逆 の性質を持っています。

 ストーリー的には、セシルという一人の人物の進化ですが、

 ゲームデータ的には、今まで育てた暗黒騎士セシルが離脱し、二度と戻らない。
今までプレイヤーが育てたLv・EXPを消去するという鬼畜の所業・・・なのですが、
この点が大きく批難されないのは、FF4がやりこみゲームじゃないからでしょう。




■ラストダンジョンから戻ってのプレイ ・ クリア後世界の探索

 残っているサブイベントや、追加されるダンジョン、
ストーリーを堪能したので、今度はやりこみ開始・・・という時期のこれ。
RPGの醍醐味でもあります。
この要素は把握して、制作してほしいもの。

 物語の演出とはいえ、ラスダンに入ると寄り道不可になる というのは
プレイヤーにやさしくない設計です。


 リレミトのような脱出魔法や、入り口までのワープ装置などを用意して、
ラスダンまでいってから戻るプレイ  を快適にしてあげるのが良いと思います。


 上記の「時限」の解消も考えれば
とくに深く考えずプレイしながらストーリーを追い、
ラスダンまで来てから さあ全要素網羅するか  というプレイができる
というゲーム設計がもっとも理想的だと思います。
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(※現在この記事はコピー移動まとめの部分があり 2010,2011,2013年記述が混在してます)

メアリー・スーの「警鐘」、そのもう一つの問題点は、設定や物語などの説得力

メアリーの持つ代表的な問題のひとつ
それは 作品内での 各人物の人権・尊重が平等でない(片方がないがしろにされる)という点について
このページでは考えていきます。



■どういう理由でその設定がなされたか ~キャラクター設定の目的~

 「金持ち」などの外面設定はダメなのか? という事について、
どういう理由でその設定がなされたか というのが重要なポイントになります。

例えば、主人公がID180の天才だったとして。
   ・周囲は平均IQ100で、周囲が称賛、見下し・比較して「踏み台」になってるのがメアリー・スー。
   ・逆に、敵にIQ180,190クラスのがわんさかでてくる頭脳バトル・・・はメアリー・スーではない。
同じ設定なのに差がでます。
つまり、その設定がどう活用されているかが重要なのです。

その設定はもてはやされるためにありますか?  YES!メアリー・スー!

メアリーを批判する場合、その もてはやし部分 を批判すべきであり、設定から判断は間違い。
加えて、メアリーがいけないのは、作者の投影だからではなく作者の願望の境遇だから
作者の投影な だけ のキャラクター はメアリーではない のです。
 「作者と同じ名前じゃん! メアリーだ!」  ←まちがい
 「作者の投影と公言! メアリーだ!」  ←実は まちがい
 「超絶な能力を持っている! メアリーだ!」  ←まちがい
 「必然性もなく 納得出来ない描写で 露骨に持ち上げまくってる! メアリーだ!」  ←正解
という事。
作者が自身を投影し、実体験を語るようなものはメアリーではないですよ?
ネット上で、特に間違えられやすいパターンです。

つまり、どんな設定でも扱い方で変わる という事。

この特性の面白いところは、コミックアンソロジーなどで現れます。
悪質なメアリー・スー作品を 別の作者が二次創作して描くと メアリー・スーじゃなくなる事がある
と、設定が全く同じなのに、差が出るのです。
その理由は、キャラの扱いに差が出るから。
( 作品内で かませ化が酷いキャラに愛を注ぎまくったマンガも書けますし、
  逆に、超絶モテはやされキャラを、馬鹿にしてみたマンガ とかも書けますしね )

これはまた逆もしかり。(非メアリ作品がメアリ化)

 例を3つほど。

バトルマンガにおいては、悪役を徹底的にクズに書き・・・それによって
   ─ 主人公の持ち上げがなされる のがメアリーです。(敵へのリスペクト皆無)
   ─ 主人公の正義感を煽る、のは単なる勧善懲悪です。

もの凄い能力を得た!・・・これによって
   ─ 人々を救いまくって 村人みんなハッピー!   は要するにヒーローモノですね。
   ─ 人々を救いまくったお礼で俺モテモテ!    っていうのはかなり怪しいメアリー成分です。

戦国時代に現代の武器を持って現れた・・・これによって
   ─ 俺様無敵すぎwwwww   っのては世界観崩壊型のメアリーですね。
   ─ しかし敵にもSF武器を持った強敵が!    ってのは単なるカオスですね。

その設定はもてはやされるためにありますか?  YES!メアリー・スー!
そのために、設定の 物語上の必然性・説得力の描写が欠けてしまうのです。
逆に、物語の上での必然性があり、しっかりと描写された説得力のある設定 はメアリーではない
という事もしっかり把握しましょう。



■「言わせられたセリフ」と「そのキャラの発言」

 セリフを作る上で素人と玄人の差が顕著に出る部分・・・かもしれません。
物語を展開させる上で、
  この後はこうなるから そうするために そうしゃべらせる
となってしまう悪い例があります。
しかしこれは誰でもやってしまいがちで、「じゃあ次はここへ行こう!」というようなセリフなどの
プレイヤーへの配慮を考えてる点は評価できます。

 しかし、悪しきメアリー・スーの特徴として”これ”がなされる事は、とても悪質。
「主人公視点から他キャラが動いている」

 主人公の悪行が手放しに支持されていたりするのが代表的で、
昨今の漫画やゲームで見かけることがあります。
この点では作者や読者のモラルの欠如が現れている一種の社会現象かもしれません。

これは視点が1つに固定される事で陥りやすい落とし穴なのです。
人間というのは、自分にも相手にも視点がある。(考え方や価値観という意味も含みます。)
当然のことですが、これが理解できているかどうかがキャラクターの描写力に関わってくると思います。

 メアリー・スーというのは作者が憑依して行動します。
この症状があると、そのセリフを言う人物がどういう性格で、どういう過去があって、
どういう本や人の言葉を見聞きしたためにそういう言葉を知ったのか、など
どうしてそういう発言をしたか、が全く描写されない という状態に陥ってしまいます。
人から出る言葉というは、その人の歴史を表します。
「キャラの言い放つセリフは、どうしてその言葉を言うようになったのかまで描くべし。」
これも 内面を描くこと の鉄則です。

例えば露骨な例ですが、
 学校もない剣と魔法の世界の冒険者が、突然「学校でいじめはなくならない!」と発言したら。
え?コイツ何いってんの?って思いませんか?
そもそも学校ってドコよ? あの学園?お前行ってないだろ。
あーあ、作者の代弁かよ と。
「作者が今までの生活で思った事を、ファンタジー世界のキャラクターに発言させる」
これが、メアリー・スーの持つ問題点のひとつ。
もし、作品の登場人物にこのセリフを吐かせたい場合、
作品内でその人物がいじめに絶望する過去があった という物語は必要不可欠です。
セリフのためには過去が要る というのを頭に入れておくといいかもしれません。
これは露骨な例でしたが、
例えば「人間とは~」などの哲学的なセリフが特にこの作者代弁化が発症しやすいパターンです。

ここが、メアリー・スーの「警鐘」の一つ 説得力 の差となって現れるのです。




■正誤を描くこと・「勧善懲悪」

 物語を書く上で当然のことなのですが、
キャラクターが悪い事をしたら、それが悪いことだと作中で描かれる事が必要です。
( 逮捕など罰を受けるかどうかではなく、作品自体がそういう描写になっているかどうか )
 当然すぎて意識していない人もいるでしょう。
しかし昨今これが守られない事態が起きているため、改めて考え直す必要が出てきています。

 しかしこれは多かれ少なかれ発生してしまう事柄。
謝る/後悔するような描写を入れる予定だったのに忘れたとか、
作者はそう描いたつもりだったのにできてなかったりとか、
重い話題を扱うほど、より丁寧に描かなければならないという技術力が必要になります。
著者の技術不足 という点もありますが、
その一方、はらいせで作られた物語はこうなるという法則があります。

 まず、勧善懲悪とは、
簡単にいうと「良い事をしよう」「悪いことはやめさせよう」という事。
RPGのストーリーにおいてとても根深く、そして絶対的な思想となるものです。

 「正義」という言葉に反感を持つ、いわゆる「厨ニ病」の症状で、勧善懲悪は幼稚である と考える。
ツクールかいわいですらこの風潮はありますね、いわば「アンチ勧善懲悪」な作品ができあがります。

 誤解された正義に対するアンチが生まれ、じゃあ悪になろうという。
 しかし主人公はモテる・ちやほやされる、という欲望部分はそのまま残った
このちやほやされたい願望というのは、メアリーの特徴でしたね。
それが、悪行→好かれる という表現になってしまったのです。
これが、アンチ勧善懲悪をして物語が破綻するパターン

 では、主人公は正義の味方でなくてはならないか?

 それはNOです。

 悪が勝つ物語? それだって良いです。

 悪の権化である主人公が破壊を繰り返し、
世界中から敵対視されつつ、登場した正義の英雄を苦戦の末撃破、
世界征服を達成し、周囲から恐怖され非難され嫌われる邪悪の支配者に!

 法律から逃れる裁かれない悪役も同様で、
人々から忌み嫌われ悪の存在であることが明らかなもの、
あるいは悪行が周囲に知られていない「表面善人」などなど・・・

裁かれるかどうかはひとつの道具であり、
周囲の人間から嫌われたり、誰も知らなくても読者には悪だとわかる描写など、
作品を通して「悪」だと描かれているという事がもっとも大事 なのです。

 例えば、漫画DEATH NOTEが上記のようなタイプで、RPGでいう「昨今の魔王」側ストーリー。
作中でも表現されているのが一部の救いですが、
現実問題あんな事しても犯罪は減りませんし、ご都合主義で変態なので好きではないです…
ドラえもんの「どくさいスイッチ」の前半だけ抜粋したようなものですしね。ネットでもネタにされたみたいで。

メアリー作品の特徴であるように、他人の人権を考えない、
自分のなかだけで完結するという共通点があります。
しかしそれを読者の一部がそれを読み取れていない事を見ると
モラルの低下が現れているなと強く感じる・・・というか、
「主人公は正義である」という物語での常識が根強すぎて、
その概念を打ち破れないでいる人が多そう
です。



 他人の人権 を考えれば すぐにわかるもの。

 しかし逆に 考えなければ わからない、

ここでもやはり視点(考え方)が1つしかないのが問題です。
言葉を借りれば「自分の自我しか関心が無い」という特徴が
この現象に現れているんだと思います。
自分のなかだけで完結しているのです。

 
●「支持される悪行」への願望

 この根底にあるのは作者がうっぷん晴らしとモテる快感を両立させたいという願望にあります。
 だから、正義でない主人公を描いた際に、
正義のように人から愛される主人公を同時に描いてしまい、
アンチ勧善懲悪をして破綻するパターンになってしまうのです。
抽象化してみると

 男「むかつくんだから口答えすんな!お前は俺に尽くしてればいいんだよ!」
 女「きゃー男さん素敵!愛してる!!」

・・・。
・・・。
・・・、これが実際に市販作品で起きている のがヤバイです。

 某所から言葉を拝借すると
「 殺すことが格好良いように表現されていて問題だ 」
という点は特に現代オタクの症状とも言える点で、悪しきメアリー・スーの特徴です。

 この場合は極端な例なので、わかりやすいと思いますが、
もしこれが わかりにくいこと だったらどうでしょうか。
復讐に取り付かれ「はらいせ」で制作する場合、作者は 盲目 になっているのですから。

 ・いじめられた → いじめっこの殺害
 ・今時の大人  → 反抗する俺カッコイイ
 ・悪い政治家  → 殺害する俺カッコイイ
 ・モテない   → ナンパ男を撃退 → 俺モテる
つまり
  ムカつくもの → それに反逆する

という、皮肉ですが、こういう感じです。
これが「はらいせ」から発生する「悪しきメアリー・スー」のパターンです。

ここでの鉄則はただひとつ! はらいせで物語を作るな!
これに尽きると思います。



■不快感を与えるストーリー

 ここ数年のテイルズシリーズ(テイルズオブジアビスが筆頭)をはじめ、
作者がプレイヤーを陥れる目的を感じるものがじわじわと出てきているようです。
技術不足 ではなくて、そもそも不快 という問題です。

 Creation College 2009の「RPG研究/RPG問題考察」6番にこのことが書かれています。
こちら

 作者がプレイヤーを不快にさせようと設計したという悪意に満ちた所業、
こういったものは見るに耐えないものがあります。



 
■「趣味はひとそれぞれ」?
 メアリー・スーファンが「趣味は人それぞれだから」と思い、
メアリー批判を、個人の人権に侵害する行為かの如く批難することがあります。
しかし、そこにはひとつの問題点が。

 以下の例文を見てみてください。


  *「お前を殺させろよ。俺は人殺しが趣味なんだ。
    人の趣味なんてそれぞれなんだから批判なんかするなよ。」


 この おかしさ がわかるでしょう。これも「正誤を描くこと」にほかなりません。

 そもそも、
「趣味は人それぞれ」という考え方は、人々がそれぞれ平等であるという考えが根底にあります。
人々が平等というのは、お互いがお互いを尊重することです。

つまり、他人の人権・存在を侵害しているような場合、平等をうたうのは無理があるわけです。
他人を侵害する行為に「人それぞれ」なんて言葉は通用しない
という事がよくわかります。
つまり上の文章は
   *「お前は俺より無価値だ。人々は平等の価値をもっているんだ。」
という矛盾発言なのです。


 転じて、

 「他人の人権を無視しまくる作品」のファンが「趣味は人それぞれ」というのも無理があるわけです。

 これは「誰も自分を理解してくれない・・・」という悩みにかんしても同じ事が言えます。
上記と同様に、お互いを理解するのは尊重しあう証拠。

   *「人を殺したい俺の気持ち、誰も理解してくれないこの世の中は狂ってる。」

狂ってるのは*の人ですね。
他人を侵害しようとする事は、もはや平等や理解をうたえるものではない
これがわかっていない人が、最近のゲームや漫画などので描写されはじめているのは、
すこし恐怖感を覚えます。

実際に自分の周囲にも、こういう考えで「私を理解してくれない。」と嘆く人を見たことがあります。


 誰にも迷惑かけてないから自分の趣味は世界に理解されるべき
という発言は、
ゲーム内の人物にすら迷惑をかけてはいけないという大前提がある

 その前提なくして 「理解されるべき趣味だ」なんて言うのは 筋が通らないのです。

他人を尊重する大前提があり、はじめて「人それぞれ」と言えるのです



●まとめ

 悪しきキャラクター/作品となるメアリー・スーという特徴、
そしてそれと同じ本質を持つ「キャラを動かす/言わせる」という脚本、
このすべての共通点は
 おもいやりが無い
という凄くかんたんな言葉にできる事柄です。
おもいやりを改めて考え直す必要が出てきてるのかもしれません。
 もう少し難しく言ってみると、
 作者自身が他人を尊敬する心に乏しいために、
作品内の会話・行動において相手となるキャラクターが持つ
心情や状態、あるいはその人権や立場への配慮が欠けた描写をしてしまう


という事になりますね。
「 自分の自我にしか関心が無い 」状態ではダメなわけです。

良い物語を作るには、他人を好きな心が必要である
 製作者にこのココロひとつあるだけで、メアリー・スーは発生せず、
正誤の描写も誤ることもなく、「人それぞれ」問題の他人侵害も起きない・・・

 他人とのかかわり、絆の弱くなった現代社会、
そしてその人たちが開発側・創作者に回ったことが、メアリー・スーや、
正誤の描写誤りなどいったものに現れてきてのだと思います。
他人を尊重する心、感謝する気持ち、忘れてはなりません。




















参考:   Wikipedia - メアリー・スー    ピクシブ百科辞典「メアリー・スー」
       ニコニコ大百科「メアリ・スー」
       google検索 - ヒドイン (類義語)
       過去にやっちゃった痛いメアリ・スーを告白するスレ(2ちゃんねる)


■「メアリー・スー」とは?

 メアリー・スーとは、一言で言えば 酷い ひいき キャラ の事。
いわゆる ストーリーの書き手がやりがちなこと であり、そこから転じて、創作全般において
物語の書き手への「警鐘」的な存在となっています。

 一般的には 最強キャラ・無双キャラ の事を指す場合が多いのですが、この言葉では不十分。
作中最強ならメアリー? それは間違いです。

 俗な説明の仕方をしてしまえば、露骨な マンセー・周囲sage・自分age、
俗じゃない説明をすると、必要以上に 周囲の人間や世界観を侮辱し、主役をもてはやす
という事が原因で、その世界がおかしいことになる のが特徴。
これが、メアリー・スーの表面に現れる悪質さです。
( 世界観を無視していたり、キャラの性格が違っていたり、倫理観がおかしかったり、など )
この おかしさ がポイント。( おかしくないのはメアリーじゃない という事 )

では、表面にこういう症状が現れる、その根本の原因はなんでしょうか?


 参考 : tvtropes - Mary Sue (英語サイト)

 元々の定義・語源としては、スタートレックの二次創作において、作者の願望充足を軸にした
その女性作者のアバターである オリジナル女性キャラ
 を指す言葉でしたが、
マーティ・ストゥ、カノン・スーなど様々な派生が生まれていき、男性にも、と意味は拡大。
新スタートレックに登場したウェスリーという人物あたりから一次創作にも適用されはじめ、
インターネットの普及と共にスタートレックからも脱却、その後、ピュリティ・スー、ドリーム・スーなど
「特徴・スー」という定形ができ各特徴ごとに名前が誕生。
メアリー・スーはそれらの総称となり、もはや定義するのが困難に・・・
・・・そんな中、その「スー」たちにはある共通点がありましたとさ。

・・・という話みたいですね。
定義については海外でも論争が絶えないようです。
上記のオリジナル・メアリー・スー( トレック・二次・女性作家・アバター・女性・オリジナル・・・ )
から、どこまで解釈を広げるかは定まっておらず、個人個人が考えをもっていたりして、
ニコニコ大百科では言論統制まで行われている始末・・・、間違えた解釈も広がり、まさに混沌。

ここ記事全般は、インターネット内の様々な情報を集め、各サイトを見ながら書いているのですが、
なかなかこれぞという定義が見つからずに困っていました。
そりゃ、決まってないんだもの、見つからないわけです。

なので、ここでは「 メアリー・スーとはどういう定義か 」は話題にしません。
( 各派閥みたいなのがあるようなので・・・ )
メアリー・スーが創りだされた経緯に着目してみたいと思います。

 ある問題があった ──それを問題提示しよう─→ 問題盛り沢山のメアリー・スー登場!

 メアリー「↑この問題の事を言いたかった。」

定義「メアリー・スーとは何ですか?」を聞かれたら、右側・メアリーという人物 が正解でしょう。
しかしここでは 左側・言いたかった問題点 をテーマとします。

 したがって、ここから書く事は、
メアリー・スーの根底でありながらメアリー・スーという人物の事ではない という事になりますね。

その「メアリー・スーが投げかける 創作における問題点」を考えて行きたいと思います。

その問題点とは大きく分けて2つ。設定の偏り と 説得力 。

1点目 設定の偏り については、次ページ ・問題点1 内面設定をすべし! へ。
2点目 説得力 については、次々ページ ・問題点2 説得性を持たせる! へ続きます。





■作者用 メアリー・スー判定方法

 作者が、自作キャラがメアリー・スーかどうか? を判定するカンタンな方法があります。

 それは、空想の中で そのキャラクターと自分が 会話してみればいいのです。
 そのキャラクターと 他の登場キャラクター ではないですよ? 自分そのものです。
 えっ?と思うかもしれませんが、
メアリー・スーというのは「アバター」であるがゆえ「人格」がない = 行動時は作者が乗り移る 。
となると、
生身の作者自身が操作中になると、メアリー・スーキャラクターは思考停止してしまうのです。

これが、最もカンタンかつ確実なメアリー・スー判定方法になると思います。





■メアリー・スーあるある

 余談として、あるあるネタなど。


 ●唐突に失態を晒しだし、徹底的にこき下ろされる敵
    どちらが正しいのか!? 主人公 vs 敵! そんな中・・・、
    まるで作者から「 はーいそこでクズな行動してー 」と指示 でもあったかのように突然クズ化、
    叩きのめされ、主役は「悪を倒した勇者」と描かれる。
    そして「ああ主役様はなんていい人なんだ」「主役は正しかったんだ。」と思わせる。
    そういう手法がメアリー・スーではよく見ます。
    この方法のせいで、その敵役の人格が破綻したりする事も多いです。
    あれ?コイツこんな事する奴だったのか?
    これにより その敵のキャラクターとしての魅力が無い という欠点として現れます。
    大抵、作者自身が見下しているので、魅力が出にくいんですね。
    愛される悪役キャラクターたち から比べたら、ほんとクソに思えますよこういうのは。
    悪役ってのはだなぁ・・・もっとこう・・・うんぬん・・・と語りたくなってしまいます。
    敵に愛がないのがメアリーあるあるかもしれません。

 ●ナンパ男を倒して女の子を救う
    これが登場しただけでは別にメアリー・スーではないのだけれど、いわゆる あるある 。
    なにコイツレギュラーなの? ってほど登場したりします。
    要するに見下し役。敵に愛がない
    倒して女の子を救い「まぁ、あなたはこんなクズ男よりもステキ!」というのが典型例。
    いわば パンくわえて曲がり角で恋に落ちる の男性バージョン
    もっとヒネろうよ・・・。
    女の子を救って勇者!というのはテンプレですが、別に怪物でも落石でもいいんですよね。
    そこでナンパ男( 同性としての見下し対象 )が出てるのがいかにもオタクらしく、
    普段、作者が敵視している相手を作品内でこきおろす というのが典型的なメアリー
    ( 敵側の視点に全く立たない → 敵キャラの破綻が起きる )
    政治関係の漫画でも あるある パターンです。

 ●論破型メアリー
    定義が難しいんですが、論破型メアリー とでも呼びましょうか。
    例の命名法則に則れば「アーギュー・スー」ですね。
    その主役が、観衆に囲まれる中、トゲトゲフキダシ で大仰にしゃべり、敵に対して叫ぶ・・・
    ・・・ここまでは良いんです。
    で、この時、抽象的に言えば 論破される側の敵が 普通の人間として平等に扱われておらず
    作者の持つ憎しみとともに、作品レベルでディスられてる・・・
    ・・・みたいなのが論破型メアリーです。
    読者に「 おいおい敵の言い分無視かよ 」とか思われたりして、作品事態の価値を下げます。
    敵の立場に立ってみると明らかにおかしいのがコレです。
    ちゃんと筋が通っていれば違います
    というのも、メアリー作者というのは、憎たらしいものを人権無視レベルで非難するので、
    敵側の言い分や立場を、筋道を通してちゃんと作ろう という意志がないんですね。
    敵に愛がないんです。

作者自身が見下してるから「破綻」 これが上記3つの共通点ですね。
これはメアリー・スーの問題のひとつ 説得力の無さでもあります。
その敵が倒されるべくして倒される ならいいのですが、あれ?っと思ってしまう。
作者が見下しているからこそ説得力の描写が書けてしまい、あー、こりゃ作者に利用されたな という感じ
がしてしまうのがメアリー・スーの問題点です。


 ●天才・容姿端麗な主役
    考えてみると、「天才」とか「容姿端麗(美形)」って設定って、脇役向きなんですよね。
    ちょっと掲示板の言葉を拝借しますが ライバルなんてハイスペックでなんぼ ですよ。
    天才・美形・富豪なんでもござれ!
    壁として立ちはだかるという 物語上の役割 があるのですから
    で、問題は主人公側の場合。
    これも例の法則です。
    美形であるがゆえに、というのがストーリーの軸として展開するならメアリーではない
    のですけど、大抵は物語の軸にふれもしない持ち上げ専用なんですよねコレ・・・。
    YES!メアリー・スー!

 ●ワザを見ただけで使えるようになってしまう「天才」
    ゲームの演出上の 奥義書を使った!習得! ってのは含みませんよ?
    これも あるある 。
    それが天才性ではなくて作品内の能力によるものなら違います。(例:写輪眼)
    というのもこの設定、そもそもストーリーに絡められない「持ち上げ専用」なんですよね。
    YES!メアリー・スー!
    そもそもコレをバトル展開に活かすんだったら特殊能力に格上げしてしまったほうが良いですし

 ●愛されキャラ! / 心配される
    私は世界の中心でありたい というのがメアリーの中心願望
    その典型例ですね。
    実は、トラウマ・障害・病気などの設定も多いのがメアリー・スー。
    その目的はやはりチヤホヤされるため。YES。

 ●オッドアイ(左右の目の色が違う)/混血(ハーフ)/血液型がRH-AB
    これだけではどうという事も無いんですけど、「多い」ですね。あるある。
    メアリー化しやすい作者が 使いたがる という感じ。
    AとかBとか、そういう場合なら単なるキャラ設定なんですけど
    「希少存在」である点が 中心願望と合致します。
    要するにもてはやされたい? YES!
    繰り返しますが、必然性と説得力があり物語に絡む場合、メアリーではないですからね?

 ●親が不在、あるいは見下し対象
    メアリーとは中心願望の化身。
    親という存在は、「自分より偉大」な存在であるがゆえに、メアリーには存在しない場合が多い。
    居てもぞんざいだったり、虐待してたりとかして「偉大」じゃなかったり。
    親に説教されて終わるぐらいだったらメアリー名乗れませんよ!(笑)
    親に説教されたら論破!私こそ偉大なり! is メアリー。

 ●世界的に認められた優秀さ・選ばれた存在
    これもまたメアリーにありがち。
    要するに、それによって主役(アバター)が 作品レベルで持ち上げられている、という。
    超注目のアイドルだったり、有名人だったり、最年少で何かを成し遂げたりとか、
    中心願望の現れですね。

 ●死によって劇的な事態になる
    メアリーが死ぬことによって、世界レベルの影響が出る。
    凄まじい物語が展開し、全ての登場人物が悲しみにくれる事になる・・・。
    ここにも、中心願望が現れてます。その作品レベルで注目の的!と。

 ●能力の総取り
    あるある欄ながら微妙にレアですが。
    例えば、ONE PIECEにおける悪魔の実の能力、例外こそあれど「1キャラ=1実」が鉄則。
    そんな中、一人が「全能力」を持ってたりする主役がメアリー。
    1=1という「平等」を崩壊させる、やはりこれも中心願望です。

 ●読者だから知ってるので世界を変える
    二次創作メアリー・スーのテンプレな悪質さのひとつ。
    世界観へのリスペクトを完全に放棄し踏み台化、自分の快感を追求。
    まさにテンプレ通り。
    剣の魔法の世界に降り立って携帯電話がーとかSF級の武器がーとか言ってるのも同じく×。
    その世界に降り立ったなら、その世界の中だけの知識を使うべき。











 







■固定ストーリー+自由度=フリーシナリオ?、「シナリオスキップ」を。

 ストーリーに対して、プレイヤーに選択権を与える場合、
それは必ずしもフリーシナリオである必要はあるのでしょうか。

 例えば、映画やドラマなら、みたくないシーンがあれば目を閉じていれば勝手に進行します。
RPGには勝手に進行する性質がありません。
 漫画・小説では、みたくない部分があれば、ページを飛ばせばいい。
RPGには、飛ばす機能がありません。

 シナリオ1つを飛ばす機能 がなぜ無いんでしょう

 ストーリーにおいて、結末に変化が起こるような自由度ではなく、
ヒマな部分を読み飛ばすもの。
この ストーリーは必ず全て順番に見る必要がある という強制感が
腰をすえてやらなければならない というRPGの 重さ に繋がってると思います。

サクサクッと話の要点だけ見てもイイジャナイ。


 「イベントスキップ」というのもありますが・・・
例えば物語の展開で、仲間と再会するシーン。

「よかった!無事だったか。」「お前も!」「~~」「そうか~~~」
「~~~。」「~~~~~~~。」「じゃあ・・・」「・・・」
「じゃあ**はまだそこに。」「助けに行こう。」「おう。」

などという会話シーンを飛ばして(スキップしますか?→はい)

 -仲間と再会した! もうひとりの仲間を助けに ~~の塔へ行こう!-

と1行で済ませてしまえば、RPGを攻略する部分だけをスムーズに楽しめます。
 既存のイベントスキップは、あくまで「2回目用」としてデザインされていて、
上のような「1行あらすじ」がないと、何が起きたのかすらわかりません。


 しかし、シナリオスキップというのは、
他人任せをしたり、クリアしたことにするもの。物語が破綻しない範囲で。
村を脅かす魔物を他の冒険者が倒したっていいわけです。
「パーティの仲間にクリアしてもらう」のもありですし。
(※テイルズにて、仲間に謎解きを終えてもらうものもありました。)

 理想的には、飛ばした要素はあとで回収できるようにしたほうが プレイヤーに優しいです。

 上の洞窟に済む魔物が一度は退治されたけど、もう一度復活したとかにして、
プレイヤーがストーリーの後半になってから改めて行ってもいいようにしたり。


 つまり、
フリーシナリオのような、複数あるシナリオをどこからでも進められるという「横の自由度」に対して

シナリオスキップ&後からクリア は「縦の自由度」を実現します。




 一本の固定ストーリー、プレイヤーがルートを選ぶマルチシナリオ、これらを問わず
ストーリーを全て順番に見なければならない というのも、進化が足りない部分かもしれません。


 そしてこれは「 シナリオスキップシステム搭載!! 」とする必要はまったく無く
シナリオスキップイベントを設定するだけで可能なもので、
ツクールにて既存プロジェクトにすら追加搭載できます。



 落とし穴に落とされた!もう一回ダンジョンを進まないと!
ここで一気にワープさせてくれる魔法使いがいたら・・・?使ってしまうでしょう
しかしこのダンジョン、宝箱がわんさかあったら・・・?

 いよいよ宿命の相手との決戦だ!
となった時に、代わりに倒してくれる戦士がいたら・・・
いやいやこいつは俺の獲物だ、と思ったりしないでしょうか。

 シナリオスキップの存在は、
いかにその部分が楽しいかどうかを如実に表すと思います。



 このスキップした内容を後で改めて出来るような設計にできれば理想かもしれません。
 RPGにおいて圧倒的に多いのが 「若者が世界を救う物語」
やはりこのベースはドラクエです。


■なぜ主人公が少年なのか

 ゲームのターゲット層が少年だからです。

 これを更に深く考え、なぜ合わせるのか?を考えて見ます。
その目的は2つ。


 1つめは当然のごとく、同じにする事で感情移入しやすくするため。

 そして2つめは、冒険などの行為と少年の親和性にあります。

 やはり「秘密基地」や「迷路探検」、そして「バトル」は男の子のロマン。
銃撃戦の世界に Manly な(男っぽい)人が主人公として登場し、
生活に密着したゲームに女の子が主人公として登場するのも同様。

 また、そういった趣味を持つ別性 の事も考えてみます。

例えば、冒険ロマンに憧れる男子心を持った女の人、
世界に降り立つと周りから男の子として見てもらえる、

オトメンがその世界に降り立つと周囲から少女として扱ってもらえる、

そういったエクスペリエンス(体験)のための設定、という目的があります。

 だからこそ、主人公とゲームジャンルは一致すべきなのです。


 そのため、戦争や軍人を描くストーリーに少年を起用したりするとミスマッチですが、
「どんなテーマでもRPGだから少年主人公」と考えてしまったことが原因です。

 この、少年が世界を救うことが、少し問題にもなります。
次の項目に記述するように、
 ヒロイズムはメアリー・スーの生みの親
であるという皮肉な結果が存在しているのです。※後述


■世界を救う勧善懲悪の世界

 世界を救う描写をする最大の目的は ヒロイズムの刺激 。
わかりやすく言うと 人を助ける気持ちの良さ にあります。
子供の頃にヒーローに憧れたような、
そういったヒーローイズム、正義の快感。

 しかしこの点で、誤解が生じてしまったのです。

 勧善懲悪。
この言葉の意味を今一度考えて見ます。


~光の国を侵略し始めた闇の軍、
 立ち上がった光の勇者は闇の軍を撃退し、平和を取り戻した~


 普通なら光の勇者が愛するものは平和だと読み取れるはずです。
つまり、光の勇者にとって民の平和が確保されれば悪の親玉を倒す必要は全くない
これがとても重要なポイントになります。

 しかしなんと、あろう事か、

 ヒロイズム = 悪業を犯す人間の命は奪っても良い物である
 と誤解する人たちがいる
 のです。

これがヒロイズムが生み出した悪意・・・?というより、
もともと殺人願望がある犯罪者予備軍が 都合のいい正当化材料を得てしまった という点。

自分を正当化したがるオタクと呼ばれる人種にある強い傾向で、
一見正しく見えてしまう理論を手に入れたために
内に秘めたどす黒い悪意を正当化する材料としてよく使われます。


 普通の人なら驚きの事実ですが、
昨今市販RPGすらこの悪意を持つものが現われているためゲーマーにはこの考えが普及し、
ついには
 正義は別の見方をすれば悪である という誤解すら生み出しているのです。

 そりゃそうなんですよコレ。

    男「俺は正義だー」→生き物を惨殺

こんな光景みたら誰だって悪人に見えます。
しかし、ここから考え方が二つに分かれるのです。

 1.こいつは悪人だ、正義と名乗ってるけど

     本来これが正しいです。
     正しい判断力を持った人ならわかるはず。

 2.正義ってのは悪なんだ

     当人が正義を名乗ってしまっているので、
     正義が悪行をしている、と信じてしまった。

この男は悪である点は2者とも共通してますが、その差は大きいです。
この問題性は「ダメな大人」という事に対しても同様。

 1.この人はダメな人だ、自分はいい大人になろう

     正しい判断力があればこうです。

 2.大人とはダメなんだ

     間違うとこうです。

どちらも2を選択してしまう人がいるのは視野の狭さが影響しています。
どちらも正しい正義像、正しい大人像を見たことが無いのが原因


 正しくヒロイズムを味わうために、少年を主人公にしたヒーローが居るのに、
この少年だという点が更なる悲劇を生むのです。


■それが若者だという点

 もうひとつのヒロイズムの誤解、
それは、少年という存在が世界に影響を与えたという点から引き起こされます。

 この自分が世界を支配する快感という魅力にとりつかれてしまった心。
その心こそが、メアリー・スーを生み出す事になるのです。※後述

 特に青年系漫画・作者のうち、
孤独感やコンプレックスが強く、他人に興味が無い人たちが描く物語に
この傾向が強いようです。


 その症状は、現代JRPGや漫画における
主人公の親友ポシジョンのキャラの冷遇さ・数の少なさ に
如実に現れています


 例えば、
ゲームでは、DQ5ヘンリー、DQ6ハッサン、DQ7キーファ…とDQシリーズと、
漫画ドラクエロト紋のキラとか、
・・・例がドラクエばっかりですけど

 あとはポケモンDPのジュン、
最近だとデジモンクロスウォーズのゼンジロウ・・・
ダンボール戦機のカズ、

 こういった親友キャラがJRPGや中高生向け漫画では
年々減少しているのと共に、居たとしても見下し対象(引き立て役)になってたりしたり。

・・・悲しいですね。

 この点に関して
google検索 - 萌えオタって「友情」や「仲間」を軽んじてね?
でいろいろまとまってます。
 特に 8番 のカキコミがよくわかります。
 友情ってのは対等なんですよね。
上記のように「支配する快感」に堕ちてしまった人たちには無いものです。




 もう一つは、年上への尊敬で、これも失われていて、
主人公が年上をまったく敬わない描写が近年増加し、
更にこれが「かっこいいものである」と描かれている点。

 本来、こういった悪意は実際に友人や社会に出る事で、柔軟に変化し、
人との関係を学ぶようになるものなんですが、
閉鎖的である人ほど自分は世界の全てであるという認識が蓄積していき、
そして彼らがゲーム制作に携わるようになったため
JRPGのストーリーに上記の様な風潮が出ている
と言えるでしょう。


 若者が主人公である問題点はここにあると思います。

 例えばドラクエの勇者だって、
ひとりの力で魔王討伐に成功したわけじゃありません。
時には仲間が、時には村の人、助言されたり、物をもらったり。
これらは 感謝すべきこと です。
 そこを本来感じ取れるはずの物語設計であるものの、
感性の無い人がプレイしてしまうと、
人から受けた恩を忘れ、全ては自分の力だと思い込んでしまうのです。

 感情描写シーンを追加することが容易になった今の時代、
主人公が他人に感謝する描写は必ずすべきです。




■敬語を使え!

 その他人を見下す快感が、顕著に現われているのが
敬語を使わないキャラクターたちです。
使ったとしても「王族に敬語つかう演技する俺カッコイイ」というのもあるほど。

 敬語をつかうからこう、使わないからこう ではなく
人を尊敬する事がいかに大事か

 これは無意識に敬語となって現われるものだと思います。




 この、人を全く敬わない心が悪意となり
メアリー・スーという存在が生まれるのです。

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